【読書感想文】大衆の反逆
最近暇なので、今まで買うだけ買って読む時間のなかった本を少しずつ読み崩しています。
で、せっかく読むなら理解をより確かにする意味も込めて記事としてまとめておこうと思い、筆(キーボード)をとりました。
今回読んだのは、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955年)が1930年に発表した、
『大衆の反逆』(著:オルテガ・イ・ガセット、訳:神吉敬三、出版:(株)筑摩書房)です。
古典の名著として名高い本ですのでご存じの方も多いことと思います。
僕はオルテガの著書を読んだのは今回が初めてなので、彼の思想に関してはまったくの無知です。
ついでに言うとオルテガ以外の哲学者の思想に関しても無知です。
ですので、とんちんかんなことを書いてしまったらすみません。
大衆に支配された世界
本書の内容を非常に大雑把に要約するなら、次のようになると思います。
すなわち、
オルテガの生きた時代(20世紀前半)というのは、大衆に支配された時代である。彼らは「甘やかされた子供」なのであり、その本質上、自分自身の存在を指導することもできないし、また指導するべきでもない。大衆に支配されているという事実は、ヨーロッパの民族、文化が遭遇しうる最大の危機に直面していることを意味している。この危機こそが「大衆の反逆」である。
という感じ。
大衆の定義
本書では随所に「大衆」がどのような特徴を持った集団なのかということが記述されています。いくつか引用してみましょう。
大衆とは、特別の資質をもっていない人々の総体である。~中略~ 大衆とは「平均人」のことなのである。
『大衆の反逆』15頁
大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。
『大衆の反逆』17頁
人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。
『大衆の反逆』17~18頁
この、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々こそが「大衆」であるというわけですね。
20世紀のヨーロッパに起きたこと
大衆はこの時代に突然現れたものではなく、以前から普通に存在していました。
では、20世紀の「大衆」はそれまでの大衆とは何が違っていたのでしょうか。
オルテガによれば、彼の生きた時代には次のような現象が見られたと言います。
- 都市や汽車、映画、演劇といった、かつては(大衆ではない)少数者のためにとっておかれた場所に大衆が群がるようになった。
- 以前は天分のある少数者によってなされていた、特殊な才能がなければ立派に遂行しえないような業務、活動、機能に大衆が割って入るようになった。
- 「今日では、大衆は、彼らが喫茶店での話題から得た結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じている。」
現代日本に生まれ育った僕としては、一つ目と二つ目は当たり前のことのようにも感じますが、当時の(大衆ではない)一部の少数者からすれば大事件だったのでしょうね。
簡単に言うと、以前までの大衆は自分が大衆であることに自覚的であり、自分が踏み込むべきではない業務、活動、機能があることを知っていて、あえてそこに踏み込もうとはしなかったということ、つまり分を弁えていたということなのでしょう。
一方、20世紀の大衆はそうではなかった。
彼らは、自分達が凡庸な人間であることを知りながら、それでもなお社会に支配的な影響力を及ぼすことを止めようとはしなかったというわけです。
今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。
『大衆の反逆』21~22頁
オルテガの言う大衆の「反逆」とは、こうした現象を指すようです。
反逆的大衆の特徴
この反逆的な大衆の特徴についてもうすこし詳しく見てみましょう。
オルテガによると彼らの生は、この時代、すべてのものに共通した物質的容易さと、法の前では万人が平等であるという事実から次のような特徴を獲得しました。
- 「自分の生の欲望の、すなわち自分自身の無制限な膨張」
- 「自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩」
あらゆる時代の民衆にとって生とは、なによりもまず制約であり、義務であり、隷属であったのに対し、彼らは世界からいかなる拒否も制止も受けないのです。
オルテガはこのような大衆のことを「甘やかされた子供」「慢心しきったお坊ちゃん」と表現しています。
彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。
『大衆の反逆』82頁
彼らが何かをやる場合は、「良家の御曹司」がいたずらをするのと同じように、自分の行為は取り消すことができないのだという真剣さに欠けている。
『大衆の反逆』147頁
大衆支配の帰結
ではこのような大衆によって世界が支配されると何が問題なのでしょうか。
なんだかんだ言っても近代を通して生活水準が大きく向上したことは事実ですし、一見良いことのようにも思えます。
オルテガ自身、財産、文化程度、男女差等の均質化によってヨーロッパ人は得こそすれ損はしなかったと認めています。
今日の大衆支配は、歴史的水準の全般的な上昇を意味する限りにおいては、有利な一面をもっているとともに、今日の平均的な生の水準が昨日のそれよりもはるかに高いことを明らかにしている。
『大衆の反逆』36頁
しかし同時にオルテガは、この時代について、自分がすべての時代に優る時代であると信じていると同時に、それが末期の苦悶とはならないと言い切る自信もない時代なのだと言っています。
われわれの生きている時代は、信じがたいような実現への能力が自分にあることを感じながらも、何を実現すべきかを知らない。
『大衆の反逆』60頁
そもそもこの自信の欠如、動揺が支配構造を変化させ、大衆が支配する社会を作り出したということです。
そして大衆は「波のまにまに漂う人間」であり、生の計画をもたないので、彼の可能性と権力がいかに巨大でも、何も建設することはできないというのです。
オルテガは、今日、文明を脅かしている最大の危険は、「生の国有化」であると言います。
大衆は自分こそが国家であると信じているので、勝手な口実を作っては国家を動かし、国家を用いて、国家の邪魔になる創造的な少数者を押しつぶそうとすると言うのです。
つまり、大衆は新しい価値を創造する能力を持たないばかりか、その能力を持つ優れた少数の人々の活動をも阻害するということですね。
大衆民族はその規範体系、つまり、ヨーロッパ文明を無効と宣することに決めはしたが、別の体系を創造する能力がないので、何をすべきかを知らず、ただ時間をつぶすために夢中でとび跳ねているのである。
『大衆の反逆』193頁
オルテガはこのような大衆の支配を「重大な道徳的頽廃」と表現しています。
ヨーロッパの超克
最後に、ではどうすれば良いのかということです。
オルテガは、ヨーロッパ人は一つの大きな統一的事業に邁進しているのでなければ、生きる術を知らず、そうした事業がなければ卑俗化し、無気力となり、魂の抜けた存在となってしまうと言います。
人間の生はその本質上、何かに賭けられていなければならない。
『大衆の反逆』203頁
また、オルテガによると、ヨーロッパは今やすべてが成長した新しい生の段階に到達したけれど、一方で、過去から生きながらえている機構は矮小になってしまって、今日の発展を阻害しているとのことです。
中身の成長に器が対応できなくなった、みたいなことでしょうか。
今やヨーロッパは自己を超克することを余儀なくされているのである。
『大衆の反逆』215頁
よって、成長した新しい生に対応した、新しい国民国家の枠組みを創造することが必要になります。
オルテガの考えでは、国民国家の本質とは、第一に共通の事業による総体的な「生の計画」であり、第二にその計画に対する「人々の支持」です。
つまり、その国家がその時々において生き生きとした計画を人々に提示できるかどうか、そしてその計画を人々が支持するかどうかが国民国家の発展には重要だということです。
そして本書でオルテガが提示する計画というのは、ヨーロッパ全体を一つの国民国家的概念とする、というものでした。
今日、「ヨーロッパ人」にとってヨーロッパが一つの国民国家的概念たりうる時期が到来している。
『大衆の反逆』255頁
ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家を建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動をふたたび強化しうるであろう。
『大衆の反逆』262頁
最後に
さて、本書を一通り読み終わって最初に出てきた感想は、
頭が良すぎるのも大変だな
というものでした。
これだけ鋭い洞察力があって、しかも愚かな大衆が社会の重要なポジションを占め始めた時代を生きていたオルテガはさぞかしストレスフルな生活を送っていたことでしょう。
ちょっと肩の力抜けよ ヘ(゚∀゚*)ノ
と言いたくなります。
愚かな大衆の一人である僕としてはなんだか申し訳ない気持ちにもなりますけどね。
僕は貴族制が復活して、上位者に隷属するような生活を送りたいとはまったく思いませんが、オルテガのこの言葉にはちょっと思うところがあります。
人間の生はその本質上、何かに賭けられていなければならない。
モラルとは本質的に何かへの服従の感情であり、奉仕と義務の自覚である。
『大衆の反逆』203頁、274頁
僕自身、何かに賭けるような人生を送りたいと常々感じていますし、本気で奉仕したいと思えるような人物や仕事に巡り合えたら幸せだろうと思います。
けどそういうのに出会ったことは一度もないんですよね、困ったことに。
あと、大衆が何かをやるときは取り消すことができない真剣さに欠ける、という言葉はちょっとわかるような気がします。
ここを読んでいたときに思い浮かんだのは、統一地方選のことです。
1ヶ月くらい前、地方選の話題でメディアが盛り上がっていたとき、大阪のことが大きく取り上げられていましたよね。
大阪維新の会が、一度住民投票で否決されたにもかかわらず性懲りもなく大阪都構想を掲げて選挙に臨んでいました。
個人的には、あんなものは何でもいいから新しいことをやりたいだけの連中が自己満足に浸って、一人で気持ち良くなっている類のものであって、それを推進している本人達ですら、それがもたらす結果についてそれほど真剣に考えてはいないのだろうなあ、と思っています。
けど選挙では彼らが勝ちましたからね。
ニュース番組の街頭インタビューで、ある女性がこんな主旨のことを言っていました。
いわく、「一回やってみたらいいんじゃないですかね、ダメだったら止めればいいんだし。」
これは極端な例かもしれませんが、取り消すことができない真剣さに欠ける、というのはまさにああいうことを言うのだろうなあと思わず納得してしまいました。
それと、ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家という発想は現在のEUを想起させるものですが、今のEUはどう贔屓目に見ても政治的、経済的に混乱しており、グローバリゼーションの限界を感じさせます。
今の状況を目の当たりにしている身としては、より保守的な国家観に惹かれざるを得ないし、オルテガのような進歩主義的な国家観はむしろ危険ではないかとすら思います。
もしかしたらオルテガが考えていたのは、今のEUとは似ても似つかないような、優れたシステムを持つ国家だったのかもしれませんが。
オルテガはナショナリズムは袋小路であり、つねに国民国家形成の原理に逆行する衝動であると断じていますが、一方で、基礎固めの時代には積極的な価値をもっており、一つの高度な規範たりうる、とも言っています。
EUに限らず、我らが日本においても、今必要なのは正にこの基礎固めというやつなのではないでしょうかね。新しいことを考えるよりもまずは足元を確かにしておかないと怖くて仕方ないですし。
あー、でも大衆はしょせん波のまにまに漂うだけだから、そんなこと考えつきもしないし、実行できるわけもないのかな。とか思ったりして。
大衆が社会を動かしているというのは動かしがたい事実ですし、今後もよほどのことがなければ変わることはないでしょう。むしろ「大衆の反逆」はどんどん加速している感すらあります。
そんなことを言っている僕自身も大衆の一人であることは間違いないですが、その自覚は忘れずに、分を弁えた言動を心掛けたいものです。
まあ心配せずとも、自分が社会に大きな影響を与えるような仕事をすることなんて今後もないですが。
とまあ、適当に要約と感想を書いてみましたが、名著と言われるだけあって学ぶところの非常に多い本でした。これだけの内容の本ですので、要約は本当に大雑把なものです。一度読んだだけでオルテガが書いたことのすべてを理解できたとは思わないし、ましてやこんな短い記事で伝えきれるはずもありません。興味を持たれた方は一度目を通してみることをお勧めします。
僕自身、今後も折に触れて読み返したいと思います。
終わり
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