【読書感想文】アメリカのデモクラシー
ここしばらく、本読んだり、ラノベ読んだり、アニメ見たり、ひたすら自堕落な生活を送っていました。
今日はそんな自堕落生活中に読んだ本の一つをまとめておこうと思います。というわけでこちら。
『アメリカのデモクラシー』
(著:トクヴィル、訳:松本礼二、出版:岩波書店)
この本は著者のアレクシ・ド・トクヴィル(1805~1859年)が25歳の時にアメリカに渡り、そこで見聞きしたことを基にして書いたものだそうです。
トクヴィルは本書の序文でこう述べています。
私はデモクラシーを知りたかった。少なくともそれに何を期待すべきか、何を恐れるべきかを知るために。
『アメリカのデモクラシー』第一巻(上)28頁
解説によると、フランス人のトクヴィルがアメリカに渡ったのは1831年のことで、1830年の七月革命が決定的に背中を押したようです。
当時のフランスは民主主義が根付くにはまだまだ時間も経験も足りず、社会は大きな混乱の中にありました。トクヴィルは民主的な国家がもっとも完全、もっとも平和裡に進展したアメリカにおいて、それが成功した原因や、平等がもたらす帰結等について学び、それを自国のデモクラシーに活かそうと考えました。
本書は第一巻と第二巻に分かれており、しかもそれぞれが上下巻に分かれていますので、全部読むと結構な分量になります。決して易しい内容ではないですし、論点も非常に多岐に渡りますので、総論的にまとめるのは僕の力では不可能です。一応通して2回読んだのですが。
ですので、今回は読んでいて特に興味深いと思った箇所だけをピックアップする形で記事にしておこうと思います。
ちなみに、第一巻の上巻は、当時のアメリカの立法、行政、司法といった制度の解説が多くなっています。僕はアメリカについて全然詳しくないですし、ましてや当時のアメリカがどんな様子だったのか知る由もありませんので、内容の妥当性についても判断できません。なので今回はその辺については触れるつもりはありません。
民主社会に生きる人々が応用的な学問を好む理由
研究に従事したことのある方や今現在研究職に就いておられる方はわかると思いますが、近年の日本では、基礎研究よりも応用的ですぐに実用化できる研究が求められる傾向が非常に強いです。
僕は薬学部にいたころわりと真面目に研究の道に進むことを考えてまして、一時期はかなり本気で研究に打ち込んでいました。生活のほとんどすべてを実験に費やしていた時期もありました。
研究の道を断念したのにはいくつか理由がありましたが、そのうちの一つが、基礎研究を蔑ろにする方針に嫌気がさした、ということです。
そのことについてはここでは深く触れないでおきますが、トクヴィルがその点について考察していたのがとても興味深かったので取り上げておきます。
トクヴィルによると、アメリカ人は日々の生活に忙しく生計を立てるのに精一杯なので、そもそも学問を追究する時間がないし、基本的に金儲けにしか興味がないから、金になる実用的な研究にしか関心が向かないということです。
民主社会に生きる人々は真理を追い求めるような活動を軽視しがちになるそうです。
民主的な社会状態と諸制度はたいていの人々を不断の行動に駆り立てる。~中略~ 行動する人間にとっては、自分の従う原理のすべての正しさを確認するのに時間を費やすよりも、いくつかの誤った原理を利用するほうが危険は少ない。~中略~ ほとんどすべての人が行動する世紀には、だから人は一般に早い頭の回転と皮相な思いつきを過大に評価しがちであり、深遠で時間のかかる精神活動は逆に極度に軽視される。
『アメリカのデモクラシー』第二巻(上)80~81頁
境遇の恒常的な不平等は、抽象的真理を求める誇り高くはあるが実り少ない研究に人を閉じこもらせ、それに対して、民主的な社会状態と諸制度は、学問に直接役に立つ応用だけを求める態度に人を向かわせるのである。
同86頁
民主的な社会状態には実用的な学問を求める心理が内在しているということですね。
今日の日本の場合、研究費の問題が非常に大きくて、日本政府は歳出を減らしたくて仕方がないので、「選択と集中」とかもっともらしいことを言って、実用的な研究以外にはお金を回さない傾向にあります。なので科研費を当てるには短期的にどのような応用が利くかということをアピールしなければならず、純粋に基礎的で、何十年と時間のかかるような研究はできなくなっています。
けれど、実際には日本が財政破綻するような状況にないということは少し真面目に勉強すれば中学生レベルでも理解できることですし、放っておいても実用に向かう傾向があるのなら、むしろ多少無理をしてでも真理を求めるような基礎研究を擁護するべきではないかと思います。
今日必要なのは人間精神を理論にひきとめることである。それはひとりでに実用に走るのだから、学問の副次的な効果の詳細な検討に絶えず引き戻すどころか、時には精神をそこから引き離し、根本原因の考察にまで高めるのが望ましい。
同87頁
民主社会に優れた為政者がいない理由
今日の日本の政治家がどいつもこいつも頭空っぽで、国民の生活を真剣に守る気もその能力もないということは日々のニュースを見ていれば否応なくわかります。
なぜこれほどの愚か者達が一国の指導者層たりえるのでしょうか。
トクヴィルはいくつかの理由を挙げています。
一つ目の理由は、民衆は日々の生活に忙しいため知性を磨くだけの時間がなく、しかも為政者の選択も瞬時に行わなければならないため、適切な判断ができないということです。
時間をかけずに学問を修め、知性を磨くというわけには決していかない。つまり働かずに生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩の越えがたい限界を成しているのである。~中略~ 民衆はいつも瞬時に判断しなければならず、もっとも人目を引く対象に惹かれざるをえない。このため、あらゆる種類の山師は民衆の気に入る秘訣を申し分なく心得ているものだが、民衆の真の友はたいていの場合それに失敗する。
『アメリカのデモクラシー』第一巻(下)53~54頁
二つ目の理由は、民衆は自分より優れた能力を持つ人間のことが基本的に嫌いだということです。
民衆はすぐれた才能を恐れはしないが、好んでもいない。~中略~ 民主政治の自然の本能が民衆をして卓越した人物を権力から排除せしめる一方、これに劣らず強力なある本能によって後者は自ら政治的経歴から離れていく。
同56頁
上記引用中の、強力なある本能というのは簡単に言うと、優れた人物は慎重かつ厳格すぎて投票者の支持を得られないだろうから、ということらしいです。
トクヴィルに言わせると、普通選挙が良い政治家を選ぶためのシステムだというのは完全な幻想だということです。
さらに三つ目の理由としてトクヴィルが挙げているのは、通常才能に恵まれた優れた人物は金儲けに精を出すので、公職に就くのはそれ以外の凡庸な人間にならざるを得ないということです。
一般に才能に恵まれ、情熱に燃える者は権力から遠ざかり、富を追究する。往々にして、自分自身の仕事をうまく処理できないと感じる者だけが、国家の運命を左右する役目を引き受けている。
同67~68頁
これら三つの理由は、言われてみれば当然のように思えますし、非常に説得力があります。
一つ目の理由に関しては、報道の責任が大きいような気がします。新聞やニュースでは、人目を引くような特定の話題ばかりが取り沙汰されて、本当に重要な論点が見えにくくなっていたり、意図的に有権者の目を逸らすような話の持っていきかたをすることがよく見受けられますからね。
情報の加工は必要ですが限度がありますし、有権者に時間がないからこそ、正しい判断を下せるような真摯な報道をしてほしいと願うばかりですが、まあ無理でしょうね。
二つ目の理由は理解はできますが、そこまでケツの穴小さくないやろ、とも思いました。
三つめは、本当にそうだと思います。自分が公務員やってたから特にそう思うのかもしれません。
実際、薬学部で優秀な人は製薬企業にいきますからね。臨床への情熱がある人は病院とか薬局にいきますし。
ただ一方で、公職に特有の資質というものもあるので、優秀でかつ公的な仕事に情熱を燃やす人がまったくいないとは思いませんが、割合的に少ないということなのでしょう。
民主社会における多数者の全能について
本書の中で度々登場する「多数者の全能」について。
簡単に言うと、みんな平等で民主的な社会においては、特定の個人や家系が突出して大きな力を持つことはない(みんな平等だから)。なのでそのような社会においては、多数者の意見だけが絶対的な力を持つ、ということです。あるいは「世論」と言い換えることもできるでしょう。
これはごく当たり前のことのようにも感じますが、トクヴィルはこの多数者の全能が行き過ぎれば暴政となり、誰も抗うことができなくなる恐れがあると言います。
多数の力が絶対的であるのは民主政治の本質に由来する。民主政体にあっては、多数者の外に抵抗するものは何もないからである。
『アメリカのデモクラシー』第一巻(下)139頁
合衆国で組織されたような民主主義の政府について私がもっとも批判する点は、ヨーロッパで多くの人が主張するように、その力が弱いことではなく、逆に抗しがたいほど強いことである。そしてアメリカで私がもっとも嫌うのは、極端な自由の支配ではなく、暴政に抗する保障がほとんどない点である。
同149~150頁
言われてみると確かにそうで、「これが世論だ、民意だ」と言われると簡単には言い返せないし、言い返したとしても結果を変えるのは難しいことが多いです。
選挙で勝ったどこかの政党が、民意を得たとばかりに消費税率を上げたりとか、大阪を滅茶苦茶にしたくて仕方ない何とか維新の会が、民意を問うとか言って性懲りもなく住民投票しようとしたりとか。
考えてみれば世論ってのは絶大な力を持ってるし、間違った意見が世論として形成されてしまうと世の中ぐっちゃぐちゃになってしまうんですよね。
だから大事なのはみんなが正しい知識を持って、他人事だと思わずに真面目に考えて、正しい意見を世論として形成することなのでしょう。
ちなみに、多数者と違う意見を表明するとどういうことになるのか、トクヴィルが非常に恐ろしいことを書いていますので少し長いですが引用します。
主人は、「私と同じ考えでないなら、死を与えよう」とは言わない。次のように言うのである。「私と違う考えをもつのは自由だ。生命も財産もみな保障する。だが、この日からお前はわれわれの内で異邦人となる。政治的権利は保障されるが、お前には意味のないものとなろう。お前が同胞市民に投票を訴えても、決して支持は得られないし、せめて自分を尊重してくれと頼んでも、彼らはなお拒絶の意を示すであろう。お前は人間の一人ではあるが、人間の権利は失う。仲間に近づけば、仲間はお前を汚れたもののように避けて逃げるであろう。お前の無実を信じる者すらお前を捨てるだろう。そうしなければ、彼らもまた人に去られるからである。安心して行くがよい。命は残してやる。だが生きることを死ぬよりつらいものにしてやろう。」
同155頁
い、陰湿すぎる……。
何のイジメだよって感じですが、実際こういうことってあると思いますね。
生きてれば普通は何らかの組織や派閥に属することになるでしょうし、そこで主流派と違う意見を表明したら嫌がらせを受けることもあるでしょう。
学会の主流派に背いたら干されて誰も話を聞いてくれなくなったなんてこともありがちですし。
学校とかで自殺まで追い込まれた事件も最近はよく目にします。
多数派も少数派もお互いに聞くべきところは聞いて、話し合いでの解決をお願いしたいところですね。
平等な社会では最小の不平等に人は傷つく
これもかなり興味深い意見です。
社会に不平等が蔓延しているときは、それが普通だから他人と差があっても目くじらを立てることはないけれど、平等がスタンダードになると、ほんの些細な違いでも気になって仕方なくなるのだとか。
不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。
『アメリカのデモクラシー』第二巻(上)237頁
人々が特権に向ける憎悪の念は特権が稀になり、小さくなればなるほど増大するものであり、したがって、民主的情念の炎は火種がもっとも少なくなったその時に一層燃え上がるように思われる。
『アメリカのデモクラシー』第二巻(下)222頁
貴族制が社会を支配していたころ、貴族と農奴は互いをまったく別個の存在とみなしており、一方は支配することを当然だと考え、もう一方は隷従することを当然だと考えていたそうです。
互いに互いの感情や習俗を本当の意味で理解することはなく、時に貴族は平然と残酷な仕打ちをすることもあったそうですが、その一方で、貴族としての義務と誇りにかけて領民を守っていたのだとか。
領民も貴族の運命には関心はないけれど、献身の義務を自然と受け入れており、それなりに上手く回っていたようです。
それが貴族も領民もなくみんな平等になると、我が身を振り返るだけで他者のことを理解できるようになるため、全体として習俗は穏やかになりますが、一方で、ほんの些細な差にも我慢がならなくなってしまうというわけです。
少し違うかもしれませんが、特権に向ける憎悪という点は今日の日本にも言える話のような気がします。
日本人はとにかく既得権益が嫌いで、「既得権益=悪」と考えているような節があります。
なんらかの組織や派閥があれば、そこに特有の利権が生じるのは至極当然のことだと思うのですが、何故か日本人は利権と見るやぶっ叩きにいくのですよね。小泉政権の時の郵政民営化とか、昨今の農協叩き、公務員叩きなんかもそうです。
実際にはそれらの組織は特に悪いことはしてないし、むしろ地域住民のために頑張って働いていて、それに対する正当な報酬を得ているだけだと思うのですけどね。改善すべき点が皆無とは言いませんが。
大体利権を叩いたところで、結局はもっとえげつない利権がそこに収まるだけなのであって、しかもそれは地域住民のことなんかなんの関心もない外資だったりするわけです。
話が逸れましたが、日本の嘆かわしい現状も、ほんの些細な特権も許せないという平等社会の本能のようなものなのかもしれないと考えると、少しは理解しやすいかもしれません。
男女の平等をどう考えるか
日本でも男女平等が叫ばれて久しいですが、そもそも何をもって男女平等というのでしょうか。
言うまでもないことですが、男性と女性は身体のつくりが違うので同一視することはできません。
男性には男性の得意分野があり、女性には女性の得意分野があります。職場でも力仕事は主に男性が集められますし、受付とか接待とかは主に女性が担当しますよね。
なんだか最近「女性の活用」とか「イクメン」とか「管理職に占める女性の割合を〇〇%に!」とか、よくわからない言葉や考え方が流布していることに疑問を感じています。
もちろん、キャリアを積んで社会で活躍したいという女性もいるでしょうし、家事を得意とする男性もいるでしょうから、選択の幅ができるだけ広がるように制度を整備する必要はあると思います。
でも、それ自体が目的であるかのように押しつけがましい政策を叫ばれても閉口してしまいます。
今日夫婦共働きが常識みたいになっていますが、それは共働きじゃないと家計を支えられないくらい生活が苦しいのだ、というのが実情だと思います。それに伴って、家事も協力してやらないと回らなくなってしまったと。
念のために言っておきますが、僕は別に男は外で働いて、女は家庭を守っているのが最も望ましい形である、とか思っているわけではありません。男だろうが一通りの家事くらいできて然るべきだし、育児に協力するのも当然のことです。
でも政府は少なくとも子供が義務教育を終えるくらいまでは両親のどちらかが家のことにかかりきりになっても余裕をもって生活できるように適切な経済政策をするべきです。
とまあ、またしても政府批判に流れてしまいましたが、トクヴィルの語る男女観がものすごくまともだと思ったので紹介しておきます。
このように、アメリカ人は男女が同じことをする義務も権利もないと考えるが、それぞれの役割に同じ敬意を表し、両者は歩む道は違うが価値は等しい存在だとみなす。~中略~ アメリカ人は社会の活動では女性をなお下においたままだが、知性と道徳の世界では男性と同じ水準に引き上げるのに力の限りを尽くしたのである。
『アメリカのデモクラシー』第二巻(下)95頁
要するに、活躍する分野が違っても互いに尊重しあってうまくやりましょう、ということですね。
まあ、日本では女性の権利についてまだまだ改善すべき点が多いのも事実ですが。
民主社会では形式が軽視されることについて
トクヴィルは平等が自由にとって大変危険ないくつかの傾向に人々を誘うので、立法者は常に目を開けてこれらの傾向を警戒しなければならない、と言っています。
そのうちの一つが形式を軽視する傾向です。
民主的な世紀に生きる人々は形式の重要性をなかなか理解せず、これに対して本能的な侮蔑の念を感じる。~中略~ 彼らは自分たちの計画のいくつかを毎日遅らせ、滞らせる形式に対して不快感を持つ。
『アメリカのデモクラシー』第二巻(下)269頁
しかしトクヴィルに言わせれば、この形式の不便さこそが自由にとってこの上なく有用なものなのである、ということです。
なぜならば、この不便さが強者と弱者、政府と被治者の間の障壁となり、一方の歩みを遅らせ、他方に状況を認識する時間を与えるからです。
主権者がより行動的で強力になり、私人が一層怠惰で無力になるほど、形式はますます必要であるということです。しかし民主的国民は生来これを尊重することは少ないのだそうです。
適切な例かどうかはわかりませんが、公務員の文書主義が非効率だから全部電子文書に切り替えるべきだとの言説をたまに目にします。
民間ではどうかわかりませんが、公務員はことあるごとに文書を作成して、関係者全員の合議を経たうえで責任者に決裁を仰ぎますから、一つ一つの案件に時間がかかりがちになるのは確かです。
バインダーに書類を挟んで回覧するので物理的に場所をとりますし、油断すると印鑑待ちの書類で机が埋まってるなんてこともよくあります。
けどそうやって物理的に書類が回ってくれば嫌でも目を通しますし、紙媒体の方が文章読むのも疲れにくくてよくないですかね。
自治体や国といった大きな組織で仕事をする場合、そうやって確実に関係者のコンセンサスを取って、建前に建前を重ねながら慎重に進めていかないと、ミスったときに身を守るものがなくなってしまいますから、少しぐらい非効率でもきちんと全員の合意の上で仕事をしたほうが良いと思うのですよね。
どうも今の日本は効率やわかりやすさを追い求めすぎているような気がします。
政治家でも、わかりやすく一言で自分の政策を訴えないと有権者に聞いてもらえなかったりとか。
僕自身、効率的なことが好きですし、わかりやすく説明できることならそうしてほしいと思いますが、世の中には非効率なことや、色んな事情が絡まりあって複雑怪奇になってしまっている事柄が山ほどあって、けれど、そのおかげでなんとか上手く回っていることもあるのだということを忘れるべきではないと思います。
効率やわかりやすさを求めるあまり、思考停止に陥らないように気を付けるべきです。
私は平等の中に二つの傾向をはっきりと認める。一つは各人の精神を新たな思想へ向かわせる傾向であり、もう一つはものを考えなくさせてしまう傾向である。
『アメリカのデモクラシー』第二巻(上)31~32頁
民主社会における貴族制について
21世紀に入る少し前から、日本は新自由主義的な改革路線、緊縮財政路線をひた走ってきました。
昔はみんなが「財政破綻する」とか「改革が必要だ」とか言っていたので、僕もなんとなくそうなのかなと思って受け入れていました。
けれど、どれだけ改革しても世の中が良くなる気配はまったくなく、この20年というもの庶民の暮らしは苦しいばかりで、どんどん息苦しくなっているような気さえします。
最近は昔よりはまともにものを考えるようになって自分なりに色々と勉強しましたので、この20年近く行われてきた構造改革とか財政改革といったものが、日本の経済状況を無視したまったくのでたらめだったということが理解できるようになりました。
そこで不思議だったのが、まともに論理的に思考すればすぐにでたらめだとわかるような改革路線がなぜ20年にもわたって打ち出され続け、なぜそれが世論に支持されてしまうのだろうか、ということでした。
トクヴィルの言うように、民主社会における民衆はものを考えなくなる傾向があるから、でたらめな政策に騙され続けてきたのだとしても、さすがにそろそろ何かおかしいと気付くべきですよね。
さらに問題なのは為政者側の問題で、僕ですら勉強すれば理解できるようなことを政治家が理解していないはずはなかろうと思うのです。
そうすると考えられる理由は一つしかなくて、要するにそうすることで得をする勢力が実権を握っているから、でたらめな改革路線がまかり通っているのだと考えざるを得ません。
そう考えたときに頭に浮かんだのは、中世の悪徳貴族的イメージでした。庶民を騙して私腹を肥やす貴族階級的なやつらが政府の中枢にいるのだろうと思ったのです。
トクヴィルがそのイメージに近いことを書いているので紹介しておきます。
職人が休みなくただひたすら一つのものの製造にうちこむと、最後には異様なほど巧みにこの作業をこなすに至る。だが、同時に、彼は頭を使って作業の段取りをつける一般的能力を失ってしまう。日ごとに彼の腕は上がるが、創意工夫には欠けてくる。彼の中で労働者が完成するにつれて、人間は堕落するといえよう。~中略~ 一言にして言えば、彼はもはや自分自身のものでなく、彼が選んだ職業のものである。
『アメリカのデモクラシー』第二巻(上)269~270頁
他方、工業生産物は製造過程が大規模で資本が大きければ大きいほど完璧でまた安価であることがますますもって明らかになるにつれて、富と知識を格段に有する人々が、これまで知識や工夫のない職人に任せていた製造業種の経営に名乗りを上げる。~中略~ それゆえ、産業の知識は不断に労働者階級の地位を低下させると同時に、雇い主の階級を上昇させる。
同271頁
雇い主と労働者の間には、だから、いかなる類似性もなく、相違は日ごとに広がりつつある。~中略~ 一方は他方に永続的に、固く、必然的に従属し、人に従うために生まれたように見え、もう一方は命令するために生まれたかのごとくである。これが貴族制でなくてなんであろうか。
同271~272頁
この雇い主、あるいは経営者という名の貴族が政策に大きな影響力を及ぼしていることが、いつまでたっても庶民の暮らしが上向かない一番の理由であるように思えます。
しかしそれにしても民衆の思考力の弱さは情けないとしか言いようがありません。
欧米では我慢の限界に達した労働者階級が反旗を翻し、アメリカではトランプが大統領になり、イギリスはEUから離脱することを決めました。
どちらの場合も、未だ社会は混乱のただ中にあり、茨の道であることは間違いありませんが、民衆が自分達のために声を上げたというのは大きなことだと思います。
僕も偉そうに人のことは言えないのですが、欧米の真似が大好きな日本人は彼らのこういうところをこそ見習うべきだと思います。
感想
随分長くなってきましたのでこの辺りで切り上げます。
アメリカにおける宗教の問題とか、奴隷制度の問題とか、興味深い論点が他にもたくさんありますので、時間のある人は是非一度手に取ってみてほしいです。
僕は二回通して読みましたが、実感としては半分くらいしか理解できていない気がします。
今後も読み返して思考の一助にしたいです。
正直言って、トクヴィルの洞察力の鋭さには脱帽としか言いようがありません。本書が書かれたのはトクヴィルが30代前半の時(確か第一巻が31歳で第二巻が35歳の時)だというからなおさら驚きです。
時代も身分も違うとはいえ、自分と同年代の人間がこれだけの洞察力と予見力を持っていたとは、素直に尊敬してしまいます。
本書の内容は二百年近く前に書かれたとは思えないほど、現代の世の中にも適用できるような話が多かったです。
それだけデモクラシーの本質を鋭く捉えていたということなのでしょう。
訳も自然な日本語で、割とすんなり頭に入ってきました。それでも元々回りくどい言い回しや修辞技法が多くて、辟易するところもありましたが。
近いうちにトクヴィルの他の著書にも手を出してみたいと思いました。
終わり
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